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四日目 愛媛-兵庫

文系と理系をわけることについての考察。教育現場では便宜上、文系と理系に分けて扱うことが多い。でも結局のところ、文系と理系という概念は、課題解決のためのアプローチの手法のひとつとして分けられているだけである。というのが四時間半で出した僕のだいたいの結論である。

「文系は結論ありき。理系は前提ありき。」僕は一度友達とこんな会話をしたことがある。風の強い日だった。別の友達を待っていたとき、強風の中、女性が自転車を漕いで前へ進んでいた。「なんでこけないんだろうな。」と僕が言うと、「自転車が回ってるからでしょ。」と友達は言った。「いや、そうじゃなくて、どういう原理で自転車はこけないのかなって。」と僕が言い直すと、「なにいってんだ、おまえ。」と言われた。まさにこれであると僕は思う。僕は「こけない」という前提になっている原理的なものが知りたかったのに、友達は「自転車が回ってるからこけない。」と言葉でかたづけた。僕はもちろん理系である。前提ありきで思考するため、その上で精緻な論理を組み立てることができる。自転車がこけないことがわかったら一輪車がこけない理由が分かるかもしれない。その一方で友達は違う。「自転車が回ってるからこけない。」「一輪車が回ってるからこけない。」という言葉が(つまり結論が)もうあるのだ。でも友達が間違いで僕が正しいかというと必ずしもそうではない。人間の生活や意思に関わる部分でそれをやるのはむずかしい。このまま理系が正しいとなると、性質の悪い宗教みたいに「優秀な遺伝子」だけを残すなんてことになりかねない。実際に穀物の品種改良では行われているのだ。でも人間でやると不幸になるかもしれない。「うーん。むずかしい。」と思いながら神戸港に着いた。

 

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