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四日目 愛媛-兵庫

僕は長い眠りから覚めた。いったいどのくらい眠っていたのだろう。昨夜の暴力的と言ってもいいくらいの激しい眠りは夢一つ見させてはくれなかった。テントの外に出るとあたりは急激に気温が下がっており、あらゆるものはその表面に薄い氷の膜を張っていた。僕のTODAYもそのひとつだった。焦りながらエンジンが動作するか試すと何回か空回りの音がしたが、問題はなかった。外のひんやりした渇いた空気を吸い、意識が戻ってくるとひとつのことに思い当った。愛媛だ。僕はいま愛媛にいるのだ。もう帰れない位置で初めての場所だったが、僕は前しか向いていない。一日目、二日目にあったような不安はなかった。

僕は顔を洗いに近くの公園にいき水道をひねった。水道管は何かが詰まったように最初水を出さなかったが、時間が経つにつれて少しずつ噴き出すようになった。抵抗していた動物がだんだんと気を許してくれたみたいだった。氷水のような冷水で顔を洗っていると、トラックの運転手が駐車場脇のスペースに車を止めて窓を開けてから話しかけてきた。

「よう、兄ちゃん。」

顔を洗っている最中だったので濡れたまま運転手を見上げることができなかった。

「おはよう。調子はどうだい。」と男はつづけた。

僕は蛇口をひねって水を止めた。

「おはようございます。」

「そんなにいそがなくていいよ。」と男は言った。

タオルで顔を拭き、思ったより高い位置にあった声の方を向いて「おはようございます」と僕はもう一度言った。

「君は旅の者でしょ?これあげるよ。」といって男は手を差し出した。二個のみかんだった。

「ありがとうございます。いいんですか?」

「うん、もちろん。そのためにもってるからね。やさしさを配ってるんだ。」と男は言った。やさしさ、ですか?と僕は聞いてみた。

「そうだよ。このあたりは旅の者が多くいてね。それぞれ困ったものをもってる。それでもがんばろうとする姿に元気をもらってるんだ。だから俺はやさしさを配るんだ。みかんならいやな気のする人はいないだろ。こうするといいことが起きる。おばあちゃんがみやげものをくれるとか、ファミレスの接客がやさしいとかそういうことだけどな。やさしさを配ったからだなと思えるんだ。そうするとまたやりたくなる。いいことが起きる。元気をもらう。このくりかえしさ。日本中もこうやってまわればいいのになと俺は思う。」

「すばらしいですね。」と僕が言うと、照れたように謙遜しながら嬉しそうな顔を浮かべていた。

礼を言って別れてから、巨大なトラックは何度も方向転換して行ってしまった。僕は二個のみかんのうち一つを剥き、優しさを配ることについていろいろと考えを巡らせながらひとつずつそれを口に運んだ。この旅でもらってばかりじゃないかと僕は思った。日常生活でもそうじゃないか。トラックの運転手はそれに気づき少しずつその循環をよくしている。僕はどうなんだ? みかんは最後の一口までおいしかった。愛媛のみかんなのだ。美味しいにきまっている。しばらく漠然と考え事をしてからテントへ戻って支度をすませた。良い日になりそうな予感がしながらTODAYにまたがり一日が始まった。

 

四日目 愛媛-兵庫

今治を出て少し進むと新居浜に出た。そこは四国霊場八十八か所めぐりの伊予の霊場がいくつかあるあたりだった。ついさっき通ってきた西条にも霊場がいくつかあり、僕は案内板に興味をひかれてここまで走ってきたのだ。あたりを見回すとお遍路さんの姿が何人か見受けられ、その格好は上から、藁で編んだ菅笠を頭に乗せて白衣をまとい、金剛杖を片手に持って足には足袋かスニーカーという姿だった。中には念珠をつけてしゃんしゃんと音を鳴らしながら歩いている人もいた。たしか小学校で習ったときに歩き遍路の距離は約千キロだと聞いた覚えがあった。その時の僕は千キロなんて五十メートル走を二万回走ればいいと思っていたが、今この旅を経験してその距離を考えるととんでもない長さだと理解することができた。ちょうど鹿児島から新居浜までの距離と同じくらいだ。それを歩き遍路だと五十日ほどかけてひとりでまわるのだ。僕はひとりで歩いて五十日もかけて鹿児島から四国までくることを想像してみた。でもそれは想像の範疇を越えていた。まるで公式も解らない数学の問題を解いているみたいだった。またあの恐怖や不安におそわれるのか。しかもひとりで歩いてだ。僕は迷路に迷い込んだようにわけがわからなくなった。

しかし同時にそれは僕にお遍路さんに対する尊敬の念を抱かせた。旅人として自分の中の何かを変えるために旅に出ているところは共通していて、相違点としては日本か四国かの点や費用の点にあった。しかし最大の相違点はその手段とかける日数にあった。その違いは旅に対する思いと比例しているような気がした。または自分の中の「何か」に違いがあるのだ。それは計ることのできないものだが、もし比較することができたなら、僕の方がちっぽけなものである気がした。僕は信号が赤になっている間にお遍路さんが真っ直ぐ確実に歩いている姿を眺めていた。そしてハンドルに腕を持たせかけながらその命題についてしばらく考えを巡らせていた。でも信号が青になってお遍路さんの姿が見えなくなってから、これは比べる種類のものではないという結論に至った。人それぞれの課題があり、その人によって解決方法が違うだけなのだと僕は思った。もう少し考えようとしたがもう頭が疲れていたので、何も考えずにTODAYをまっすぐ走らせた。風はさわやかに吹き、あたりに心地よさを送っていた。僕の頭はいくぶんましになり、気持ちよさと共に新たな気持ちを持つことができた。そして霊場の続く国道十一号線をまっすぐ進み、高松の方へ向けて走った。

 

四日目 愛媛-兵庫

今治を出て少し進むと、香川に出た。香川と言えばうどんだと僕は即座に思った。別に腹が減っていたわけではない。それどころか朝食はさっき食べて空腹なんてほとんど感じなかった。でもせっかくきた香川を素通りしてしまうわけにもいかない。僕はとにかく讃岐のうどんを食べてみたかったのだ。適当にうどん屋を探してそこへ入ってみた。開店時間前だったようで暖簾はまだかかっていなかったが、入って大丈夫かと聞くと、もうすぐ開店だから大丈夫だと言ってくれた。個人経営の飲食店の人はみんなやさしい。ぶっかけうどんをひとつ、といって僕は店内に入った。店主は厨房にもどってガスの火をつけて鍋の水を温め、それが沸騰するまでにFMラジオを聴きながら皿を洗って乾かしていた。FMラジオはBUNP OF CHICKENの「天体観測」を放送していた。皿洗いをするにはうってつけの曲だった。というか何をするにもさしさわりなく盛り上がった気分になれる曲だった。鍋の水が沸騰してくると乾麺を取り出してテボへ入れ、金網のフックを鍋のふちに引っ掛けてタイマーをセットしてから、店主はまた皿洗いに戻った。BUNP OF CHICKENは曲を最後のサビへもっていこうとしていた。タイマーが鳴ったのを聞くと店主は駆け寄って鍋からテボを取りだして熟練の水切りをみせ、どんぶりに入れたうどんを僕に差し出した。それからはセルフサービスだよと言って、商品が並んでいる方を差した。そこにはてんぷらや青ネギや大根おろしや温泉卵がずらりと並び、選んでほしそうにそれぞれが独特の輝きをはなっていた。僕はちくわのてんぷらとレンコンのてんぷらを選んだ。何かを選んだり付け加えたりすのは悪くなかった。そこには自分でつくったオリジナルな食べ物ができあがる。僕は勘定を払って自分で作ったオリジナルうどんを大事そうにかかえながら席に着いた。コシの強そうな麺、色彩を持たせる薬味のネギとおろし生姜、そして大根おろしをかけ、最後に天かすをちりばめて、だし醤油をぶっかけた。おいしすぎてほっぺが落ちそうだった。

僕は礼を言って店を出て、歯に引っかかったネギを爪楊枝でとりながら、こういう衝動的な名産物の食めぐりもいいなと思った。満腹でそんなことを考えているとくるしくなってきたので、僕はまたTODAYにまたがり東へと向かった。

四日目 愛媛-兵庫

うどん屋を出て、高松へ向かっている途中に丸亀や坂出を通った。そこに瀬戸大橋が見えてきれいな海の景色が眺められた。瀬戸内海に浮かぶ島々が目の前に広がり、その橋を際立てるアクセントとなっていた。瀬戸大橋香川県坂出と岡山県倉敷をつなぐ橋で自動車専用道路だったため僕は行くことができなかったが、世界最長の名を持つだけあって堂々とした風格を持ち、先の方はうっすらとしか見えなかった。それは僕に中国の万里の長城を思わせた。だれがこんなに長いものをつくったのだろう。どのくらいかかったのだろう。そしてどれくらいの効果があったのだろうか。たくさんのお金と時間と労力をかけて人のためになることをするのは、どれに価値を置くか置かないかで意味がだいぶ変わってくる。それを判断して決定するのはもっと難しいだろうなと僕は思った。瀬戸大橋の建設理由について考えを巡らせていても中国の万里の長城はいったいなぜ六千キロも作ったのか、僕にはまったく理解ができなかった。

僕のこの旅は意味があるだろうか? お金をかけて時間をかけて労力は全部突っ込んでいる。それは人のためになることなのだろうか。いやたぶんならない、と僕は思った。この旅は自分のために出ていて人のためではないのだ。旅をする人間は普通、人のために旅に出たりはしない。自己満足とわかっていても何かを変えたくて出てしまうんだ。理由なんてない。理由があるとすれば・・・さっきもこんなことを考えたじゃないか。もう難しくて答えの出ないことを考えるのはやめよう。それは後でじっくり考えよう。僕は疲れていたので考えるのをあきらめてだまって瀬戸大橋を眺めていた。ふと中国の万里の長城を作った気持ちが少しだけ理解できた気がした。僕は瀬戸大橋を眺めるのもやめ、TODAYに深く腰掛けてからエンジンをかけた。そして再び国道十一号線に乗って高松の方へと進みだした。

 

四日目 愛媛-兵庫

フェリー乗り場についた。高松-神戸の運航便が出ている四国に有数あるフェリー乗り場のうちのひとつだ。四国にある愛媛と香川だけを走っていると僕はなんだか急に本土へ帰りたくなったのだ。僕は出航の時間になるまでやることもなかったのでベンチに座って周りの人を漠然と観察していた。

身なりのいい学生が同じ制服を身に着けてなにやら言い合っていた。二人はたぶん同じ学校に通っているのだろう。なんだか楽しそうだ。彼らの話しているのは好きな女の子の話だろうか、部活動で県大会に出た話だろうか。そんなことを考えながら彼らを眺めているうちに僕は秀才だったクラスメイトのことを思い出した。彼はとにかくなんでもできて微分法から動詞の活用まで理解していて徳川家の十五代将軍も全部言えるという担任の先生も自慢の生徒だった。スポーツも万能で部活動のキャプテンに就任していたしおまけにイケメンだった。高身長でとにかくよくモテた。僕は彼の周りにいる女の子と少しでも話をするためによく勉強のことを聞きにいっていた。いつも国語ばかり聞いていた。題問にある作者の気持ちなんてわからない。問題の作成者はわかっているのか、と愚痴をよくこぼしたものだ。彼はそれを文句も言わず聞いてくれた。

そういえばなぜ国語ができなかったんだろう、と僕はふと思った。昔から算数や数学は好きで暇さえあれば足したり引いたり計算をしていた。その一方で、国語はセンター試験で他教科の半分の点数をとってしまうくらいまるで駄目だった。もちろん理系コースへいき数学や理科を重点的に勉強して、文系コースの国語や社会はやらなかった。英語だけは好きだった。でもなぜこうやって文系と理系を分けるのだろうという疑問に僕の考えはだんだんと移っていった。それは単にわけるために国語や数学で区別すべきことではない気がしてきた。フェリー運航は四時間半もあってすることもわからなかったのでとりあえずこのことについて考えてみることにした。

 

孫正義から学んだマネジメント

四日目 愛媛-兵庫

文系と理系をわけることについての考察。教育現場では便宜上、文系と理系に分けて扱うことが多い。でも結局のところ、文系と理系という概念は、課題解決のためのアプローチの手法のひとつとして分けられているだけである。というのが四時間半で出した僕のだいたいの結論である。

「文系は結論ありき。理系は前提ありき。」僕は一度友達とこんな会話をしたことがある。風の強い日だった。別の友達を待っていたとき、強風の中、女性が自転車を漕いで前へ進んでいた。「なんでこけないんだろうな。」と僕が言うと、「自転車が回ってるからでしょ。」と友達は言った。「いや、そうじゃなくて、どういう原理で自転車はこけないのかなって。」と僕が言い直すと、「なにいってんだ、おまえ。」と言われた。まさにこれであると僕は思う。僕は「こけない」という前提になっている原理的なものが知りたかったのに、友達は「自転車が回ってるからこけない。」と言葉でかたづけた。僕はもちろん理系である。前提ありきで思考するため、その上で精緻な論理を組み立てることができる。自転車がこけないことがわかったら一輪車がこけない理由が分かるかもしれない。その一方で友達は違う。「自転車が回ってるからこけない。」「一輪車が回ってるからこけない。」という言葉が(つまり結論が)もうあるのだ。でも友達が間違いで僕が正しいかというと必ずしもそうではない。人間の生活や意思に関わる部分でそれをやるのはむずかしい。このまま理系が正しいとなると、性質の悪い宗教みたいに「優秀な遺伝子」だけを残すなんてことになりかねない。実際に穀物の品種改良では行われているのだ。でも人間でやると不幸になるかもしれない。「うーん。むずかしい。」と思いながら神戸港に着いた。

 

孫正義から学んだマネジメント~不可能を可能にする方法~

四日目 愛媛-兵庫

僕は勉強もなんでもできてスポーツも万能で部活動のキャプテンにも就任していたクラスメイトの家へ向かっていた。彼は神戸大学に推薦入試で合格し、一人暮らしをしながらささやかな学生生活を送っていた。長い道のりを進み続けて住所の通りにTODAYを走らせ、ようやく彼の家に着いた。

「久しぶりだな。」彼はそう言って僕を迎えてくれた。

彼の部屋は新品のようにぴかぴかと光っていて、きちんとたたまれた洗濯ものやリモコンを入れたかごやティッシュの箱がきちんと角をそろえて置かれていた。

「相変わらずだな。」と僕は言った。

「何も出すものもないけど、適当に座ってくれ。」と彼は座布団をすすめてくれた。

僕は座布団に座って彼が台所でお茶を入れているのを待っているうちに、これまでの旅の経過を話し、高松のフェリー乗り場で君のことを思い出してさっきの命題について考えを巡らせていたことを話した。

「お前またそんなこと考えてたのか。」と彼はお茶をリビングに運びながら言った。僕は昔からこういう命題についての自分なりの結論を彼に話していたのだ。

「ああ、僕はいつまでも偏屈者だな。」と僕は言った。彼は顎を一センチほど上下に動かしただけであとは何も言わなかった。

「お前はこの命題についてどう考える?」と彼に向かって僕は聞いてみた。「さあ、わからないな。」と彼はソファーに腰かけて本を開きながら言った。「わけることがいいのかもしれないし、よくないのかもしれない。」

「なんだよそれ。」と僕は言った。僕は彼の答えに期待していたのだ。おもしろくない答えが返ってきてこれ以上議論を交わすことが出来ないと思った僕は、シャワーを貸してくれと頼んだ。彼はバスタオルとハンドタオルを持ってきて、シャワーの場所を教えてくれた。それらを済ますと彼はまたソファーに戻った。僕はユニットバスに入り今日一日の汚れを洗い落としたあと、さっぱりとした気持ちでシャワーから上がってきた。彼は相変わらず難しそうな顔で本と睨めっこしながらソファーに深く腰掛けて座っていた。僕が鏡の前に立ってドライヤーで髪を乾かしていると「なあ。」と彼は振り返って僕の顔をじっと見上げながら言った。「さっきの話だけど、」と彼は続けた。

「俺はそんなこと考えたこともないし、世の中のことをまだあまりよく知らないけれど、でもこれだけは確信をもって断言できるな。もしお前が偏屈者だとしたら、偏屈者じゃない世の中の大人はみんな馬鹿だ。」