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六日目 大阪-静岡

僕は何のために旅に出ているのだろう。さっきのふとした思いが靴の中の小石のように僕の頭のどこかで残り続けていた。僕が旅をし始めたのは約一年前からだった。それまで大阪に住んでいて、鹿児島へきたときに大自然のすごさに圧倒されて、気がつけば旅をするのが好きになっていた。ちょうどその頃、原付が手に入ったこともあり僕の行動範囲は前と比較できないほどに広がっていた。友人がそれを聞いて自分が知っているあの場所やこの場所に行ってみないかと誘ってきたので、僕は断る理由もなくその友人とあらゆる場所に訪れ続けた。友人としては一緒に行く仲間が欲しかったし僕としては新しい場所に訪れるいい機会になったので、その関係は約六か月にも及んだ。ある日、僕は「日本縦断にいこう。」と彼に誘いかけてみた。「それは、どうだろうな、むずかしいかもしれないな。」と彼は本当に難しそうな顔をして言った。僕は行きたくて仕方がなかったのでその友人を誘い続けたのだが、とうとうその友人は折れなかった。僕は好奇心が溢れかえってどうしても行きたかった。しかし障壁がひとつそこにはあった。

いつも彼が旅の計画のすべてを立てていたのだ。宿の予約や道の確認、持ち物の準備までなにもかも彼が行なっていた。彼は完璧だった。そして僕は一人で何もできなかった。踏み出そうとしたがそう簡単に乗り越えられる壁ではなかった。僕は途方に暮れて散歩道を歩き、十分ほど歩いたあと、沿道に座り込みながら河川敷で遊ぶ小学生を眺めていた。そのときにふとこんな言葉をだれかが言っていたのを思い出した。「勇気のあるところには好奇心があって、好奇心のあるところには勇気がある。」その時いい言葉だと僕は思った。好奇心と勇気の関係性はこの言葉に集約されているかもしれない。しかし同時にまたこんな言葉も思い出した。「好奇心というものはほとんどの場合すぐに消えてしまうんだ。勇気の方がずっと長い道のりを進まなくちゃならない。好奇心というのは信用のできない調子のいい友達と同じだよ。」いやな言葉だがそのとおりだと僕は思った。いくつかの僕の経験がその言葉の妥当性を証明していた。あるいはこの言葉の方が好奇心と勇気の関係性を集約しているのかもしれない。僕はふーっと息をはき、目を閉じて茫漠とした意識の中でさまざまなちりが漂っているのを眺めていた。行くか? 行かないか? 目を開けて河川敷で遊ぶ小学生をもう一度眺めてから、僕は「調子のいい友達」に賭けてみることにした。何とかなるだろう。やってみなきゃわからないじゃないか。自分にそう言い聞かせた。

そして自分なりに努力して苦難をはねのけてここまできた。「調子のいい友達」はまだ僕を焚きつけて、前へ前へと進ませようとしている。最後までこの友達と付き合ってやろう。Mr.Childrenの「終わりなき旅」は僕の頭でリピートされていた。僕は自分の中の高い壁を乗り越えるために旅に出ているのだ。